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小泉 親彦(1884-1945)

ページ番号:238-734-873

最終更新日:2017年3月24日

戦争に翻弄された医学者

小泉親彦は、旧鯖江藩士小泉親正の3男として、明治17年(1884)に生まれました。母は武生出身のやすです。幼くして両親を亡くし、祖母のたね(川島の高原武右衛門の娘)の手で育てられました。
 親彦は、明治29年(1896)に東京府開成中学校に入学します。中学時代にはドイツ教会に通い、ドイツ語の勉強に熱中しました。あるとき、試験の答案をすべてドイツ語で書いたため、教官から生意気と見られ、成績の順番が2位に下がったという逸話が残されています。その後、岡山の第6高等学校(現在の岡山大学)を経て、明治37年(1904)9月には東京大学医学部に入学します。医学部では衛生学を専攻しました。なお、歌人で医学博士である斉藤茂吉は、開成中学・東大医学部を通じて同級生であり、生涯にわたり親交がありました。
 東京大学医学部を卒業すると陸軍に入り、軍医学教官、軍医監、近衛師団軍医部長、軍医学校長などを歴任、昭和9年(1934)には軍医総監となり、同時に陸軍省医務局長となりました。その後、昭和13年の厚生省の設立に尽力し、厚生年金制度を創設しました。そして、太平洋戦争が勃発した年である昭和16年(1941)9月には第3次近衛内閣の厚生大臣に就任、同年10月の東条内閣成立のときにも留任し、昭和19年7月の内閣総辞職まで同職にありました。当時、日本が戦争を遂行するために、国民の総動員体制を確立、強兵健民体制が余儀なくされていくなかで、親彦は結核撲滅対策を強力に推進しました。
 終戦の年である昭和20年(1945)10月、小泉親彦は戦争犯罪人として連合国軍総司令部から出頭を命ぜられましたが、予め予期していたのか、自害しその生涯を終えました。医学一筋に生き、厚生大臣にもなった人物ですが、戦争と言う時代の波に翻弄された悲劇の人物といえるでしょう。

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