このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動




サイトメニューここまで
本文ここから

藤原 善超(1785-1855)

ページ番号:452-211-179

最終更新日:2017年3月24日

横越本山證誠寺の「中興の祖」

 藤原善超(東溟(とうめい)上人)は、天明5年(1785)1月、京都で生まれました。名を季維(すえつな)といい、9歳のときに九清華家に数えられる今出川家の猶子(ゆうし)となります。京都では公家の子として学問に励み教養を身につけ、特に上賀茂神社宮司の加茂(かも)季鷹(すえたか)からは和歌と国学を学びました。文化3年(1806)9月、22歳のときに浄土真宗山元派本山證誠寺第20世法主として入山、同8年に上人号が勅許されて、名を「善超」と改めました。「東溟」は別号です。
 当時の證誠寺は度重なる火災によって荒廃しており、善超はまず伽藍の再建に取り組みました。再建事業途中で御影堂が再び火災で焼失するなど、不運に見舞われましたが、懸命な努力の結果、文政7年(1824)に御影堂が完成しました。相次ぐ飢饉による物価高騰や社会不安を乗り越えての復興に、善超は人々から本山證誠寺の「中興の祖」と尊敬され親しまれたのです。
 善超は歌人としても有名です。天保14年(1842)に編纂された歌集「東溟家集」には1730首が収められており、中央歌壇からも高い評価を受けていました。鯖江では舟津神社宮司らと交流し、「鯖江社中」という歌会を主宰しました。また、鯖江藩第7代藩主間部詮勝とは、詮勝が京都所司代時代からの交流がありました。
和歌を通じての交流は、飛騨国高山や古川にも及んでいます。当時の越前国内の幕府領の統治は飛騨郡代(高山代官所)が兼務していたため、越前と高山は関係が深く、飛騨郡代が本山證誠寺を訪問することもありました。また、高山には福井の歌人(たちばなの)暁覧(あけみ)も師事した田中大秀がおり、越前の歌人たちとの交流が盛んな地域でした。嘉永4年(1851)、善超は飛騨郡代小野朝右衛門からの招待を受けて、高山を訪問しています。4ヶ月にわたる長期滞在でしたが、善超が帰国する際には盛大な送別の歌会が催されました。
 證誠寺を再興し、和歌を通じて各地各層の人々と交流した善超は、「東溟さん」と慕われ、安政2年(1855)、71歳でその生涯を閉じました。

お問い合わせ

このページは、文化課が担当しています。

〒916-0024 鯖江市長泉寺町1丁目9番20号

文化振興グループ
TEL:0778-53-2257
FAX:0778-54-7123
文化財グループ
TEL:0778-51-5999
FAX:0778-54-7123

このページの担当にお問い合わせをする。

情報がみつからないときは

サブナビゲーションここまで

鯖江市章
〒916-8666 福井県鯖江市西山町13番1号
TEL:0778-51-2200(代表)
FAX:0778-51-8161
  • 鯖江市の花・木・鳥
    つつじ・さくら・おしどり
  • 人口と世帯
  • 鯖江市の動物レッサーパンダ
    メガメガ・ウルウル
トップへ戻る
Copyright (c) Sabae City. All Rights Reserved.
このページのトップに戻る