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渡辺 牛兵衛(?-1630)

ページ番号:214-075-600

最終更新日:2017年3月24日

鳥羽野の開拓者

 渡辺牛兵衛(諱を長久)は福井藩士で、北陸道の整備や鳥羽野の開発に尽力した人物です。牛兵衛は、もともと初代福井藩主結城秀康の馬廻衆でしたが、福井藩の領国整備の一環として大規模な北陸道の整備が計画されると、その開拓奉行に任命されたのです。
 当時の北陸道は、神明社から東方に遠回りしており、物資の輸送や旅人の通行に大変不便でした。そして、その原因となっていたのが鳥羽野の原野だったのです。鳥羽野は神明社の北側から江尻にかけての地域で、キツネやウサギが棲む葦原が広がり、盗賊が出没するような原生林でした。このため、この鳥羽野を切り開き北陸道を南北に直進させる必要があったのです。さらに、新しい街道沿いに人家を集めて、移住した人々の安全と繁栄を図る必要もありました。
 慶長12年(1607)、計画を進めてきた結城秀康が死去しますが、2代藩主松平忠直がこれを引き継ぎ、元和4年(1618)にこの大工事が着工します。牛兵衛は、福井藩家老の本多富正の指揮のもとに陣頭指揮に当たり、自らの屋敷地を新街道沿いに定めて住民の安全確保に努めるとともに、新街道沿いへの移住者には屋敷地を無償で与え、租税・公課の免除、商売自由の特権を与えるなどの優遇策を講じました。
 こうして徐々に新しい街道の整備が成果を上げていき、松平忠直の藩主時代には218戸が移住しました。さらに、幕末期には東方の水田地帯から田所村・岡野村・中村・野尻村の4村が全村移住し、他地域からも人々が移住して、寄り合い村として五軒町村・中野村・一里塚村・江尻村が造られました。その結果、新しく完成した鳥羽野の北陸道沿線には南から田所村・五軒町村・岡野村・中村・中野村・野尻村・一里塚村・江尻村が並ぶ、いわゆる「鳥羽八町」と呼ばれる街並みが形成されたのです。
なお、現在の神明町4丁目(旧岡野村)にある長久寺の寺号は、渡辺牛兵衛がその創建に尽力したことから、牛兵衛の諱である「長久」に因んでいます。牛兵衛は寛永7年(1630)に死去し、その亡骸は長久寺にある松平忠直の供養塔の隣に葬られました。

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