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先人を偲ぶ 「間部 詮勝」

ページ番号:414-776-721

最終更新日:2017年3月24日

間部 詮勝(まなべ あきかつ)

7代鯖江藩主で幕政に関与、西山嚮陽渓の開拓

間部詮勝は文化元年(1804年)2月19日、鯖江藩5代藩主詮煕(あきひろ)の第7子(3男)として生まれました。出生地については、江戸にあった鯖江藩の上屋敷(芝三田邸)という説と、国元鯖江で生まれたという2説があります。しかし、藩の公用日記にははっきり鯖江で生まれたとかかれていますから、ここでは鯖江で出生したと考えておきたいと思います。幼名を鉞之進(えつのしん)といいました。
 さて、6代藩主間部詮允が文化11年7月17日、風邪をこじらせて急死しました。詮允の死によって、わずかに11歳の鉞之進が詮允の養子となって、藩主の座につくことになり、9月22日には家督相続し、詮良と名乗ることになりました。11歳という幼藩主であるので叔父で笠間藩主である牧野貞喜などが後見人となって、若い詮良を補佐することになりました。文化14年には初めて将軍徳川家斉にお目見えし、翌文政元年(1818年)2月に元服。名も詮勝と改め、同年12月16日には従五位下・下総守に任ぜられています。

 ところで、江戸時代における諸藩の課題は慢性的な財政難を克服することでしたが、詮勝が藩主に就任したころの鯖江藩の財政も極度に悪化していたときです。詮勝も自ら先頭に立ち、質素・倹約的な生活を常とし、藩政の目標を「質実剛健」におきました。藩内の農民にも倹約する旨の法令を出しています。詮勝の初めての鯖江入封は文政4年のことです。この時は領内から多くの領民が詮勝を迎え、若き領主に大きな期待が寄せられました。翌5年には藩政の実情を理解し、民政を把握する目的で領内の村落を親しく巡察しています。この時の巡察の様子は「政午紀行」という本に詳しく書かれています。

 さて、文政9年6月、詮勝は奏者番に任命されることになり、初めて幕政に関与することになりました。奏者番というのは、一万石以上の譜代大名が任命される職で、年始や節供などに大名が将軍に謁見するときその取次ぎをし、その姓名や進物を披露するとともに、殿中の礼式を掌るという重大な職でした。譜代大名が幕閣において要職につくための登竜門でした。これまでの歴代鯖江藩主の中には幕政に関与した藩主はなかったので、家臣や領民の間に喜びの波が広まりました。詮勝は家臣や領民の期待に応えたかのように、奏者番の任命を皮切りにトントン拍子に出世を遂げ、天保元年(1830年)に27才の若さで寺社奉行見習いとなり、翌年加役に昇進。そして同8年に大坂城代に就任し、その翌年には京都所司代に栄転するというまさに目を見張る出世ぶりでした。そして、天保11年1月には西丸老中職(大御所家斉付)となり、ついに幕閣の最高位に昇りつめたのです。詮勝37歳のことでした。このような一連の昇進ぶりは詮勝の有能さを物語るものといえましょう。そして、鯖江に築城の許可があったのもこの時でした。幕府からは築城費として5千両が下賜され、設計図なども作成されましたが、幕末期であることや地理的な問題から「鯖江城」の建設は実現しませんでした。

天保14年、詮勝は病気を理由に老中を辞任し、その後は悠々自適の生活を送っています。この間、書画に親しむ一方、幕財政を立て直すために「産物会所」を設けたり、また、広く蘭学者と接し、海外事情の研究を進めました。鯖江では自ら御達山(おたてやま)をひらき一大遊園地「嚮陽渓」を造って、領民の憩いの場としたことはよく知られる話です。この嚮陽渓は現在西山公園となり、市民の憩いの広場となっています。
 さて、安政5年(1858年)に詮勝は老中に登用されることになりました。詮勝にとって実に15年ぶりの幕政への復帰で、老中勝手掛兼外国御用掛を命じられています。当時の日本は開国をめぐって激しく揺れ動いている時代で、国情が不安定な時代でした。特に、外国との問題で盛んに論議されているときで、このようなときに詮勝は老中、それも外国担当の職に就いたのです。
幕府は、朝廷の許可を得ず、いわゆる「安政五カ国条約」に調印してしまいます。このことによって尊攘運動は激しさを加え、いわゆる「安政の大獄」へと発展していきますが、詮勝は朝廷に参内し、条約調印の説明をするなど、国政上の難局に対処しています。

 しかし、安政の大獄の志士の処分をめぐって厳罰主義の大老井伊直弼と意見を異にし、老中を解職され、文久2年(1862年)には藩主の座を詮実(あきざね)に譲っています。詮勝が鯖江藩主であったのは実に49年間の長期にわたっていますが、これは歴代藩主では最も長く藩主を勤めたことになります。
晩年の詮勝は控えめな生活を送ったといわれています。「松堂」と号し、詩とか絵画をよくし、たくさんの作品を残し、今日でも鯖江市内の旧家に残されています。間部家の菩提寺である萬慶寺本堂には天井いっぱいに「風神・雷神・竜神」が描かれており、実に見事な作品です。なお、婦人の玉雪も絵画をよくし、優れた作品を残しています。
詮勝は、明治2年(1869年)東京向島小梅村に転居し、同17年に83歳の高齢で没しました。千葉県市川市の法華寺に墓があります。

郷土を築いた人々


間部家系譜

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