間部 詮勝(1804-1884)
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最終更新日:2017年3月24日
第7代鯖江藩主
間部詮勝は文化元年(1804)2月19日、鯖江藩5代藩主
さて、6代藩主間部
詮允の死によって、わずかに11歳の鉞之進が詮允の養子となって、藩主の座につくことになり、9月22日には家督相続し、詮良と名乗ることになりました。11歳という幼藩主であるので叔父で笠間藩主である牧野貞喜などが後見人となって、若い詮良を補佐することになりました。文化14年には初めて将軍徳川家斉にお目見えし、翌文政元年(1818)2月に元服。名も詮勝と改め、同年12月16日には従五位下・下総守に任ぜられています。
ところで、江戸時代における諸藩の課題は慢性的な財政難を克服することでしたが、詮勝が藩主に就任したころの鯖江藩の財政も極度に悪化していたときです。詮勝も自ら先頭に立ち、質素・倹約的な生活を常とし、藩政の目標を「質実剛健」におきました。藩内の農民にも倹約する旨の法令を出しています。詮勝の初めての鯖江入封は文政4年(1821)のことです。この時は領内から多くの領民が詮勝を迎え、若き領主に大きな期待が寄せられました。翌5年には藩政の実情を理解し、民政を把握する目的で領内の村落を親しく巡察しています。この時の巡察の様子は『政午紀行』という本に詳しく書かれています。
出世と幻の鯖江城
さて、文政9年(1826)6月、詮勝は
幕末の動乱へ
天保14年(1843)、詮勝は老中水野忠邦と対立し、病気を理由に老中を辞任します。その後は書画に親しむ一方、藩財政を立て直すために「産物会所」を設けたり、また、広く蘭学者と接し、海外事情の研究を進めました。鯖江では自ら
さて、欧米列強が日本に開国を求めて迫りつつあった安政5年(1858)、詮勝は大老井伊直弼の指名を受けて、老中に再登用され、勝手掛兼外国御用掛として、実に15年ぶりに幕政への復帰します。当時の日本は、開国と将軍継嗣問題をめぐって揺れ動き、朝廷の許可なく調印した「安政の五ヶ国条約」の調印をめぐって、尊王攘夷運動が激しさを増していました。そのような状況の中、詮勝は孝明天皇に条約調印に至る経緯を説明し、幕府に反発する勢力を粛清するという任務を負って、命がけの上洛をすることになったのです。
およそ100名の処罰者を出した粛清は、後に「安政の大獄」と呼ばれるようになりましたが、日本という国を守るため、厳しい態度で開国を決断した直弼や詮勝によって近代日本の端緒が開かれたのです。
しかし、安政6年(1859)末、詮勝は安政の大獄の志士の処分や孝明天皇からの勅許獲得をめぐって大老井伊直弼と意見を異にしたことで、老中を罷免されます。さらに、翌年3月3日に「桜田門外の変」で直弼が暗殺されると、直弼と詮勝が主導した安政期の政権は瓦解してしまいました。
文久2年(1862)になると、鯖江藩は安政の大獄の責を問われて1万石の減封となり、詮勝も隠居して藩主の座を
晩年の詮勝は控えめな生活を送ったといわれています。「松堂」と号し、書画や詩歌の製作に精を出しました。今日でも鯖江市内の旧家はたくさんの作品が残されています。間部家の菩提寺である萬慶寺本堂には天井いっぱいに「風神・雷神・竜神」が描かれており、実に見事な作品です。なお、正室の玉雪(簾)も絵画をよくし、優れた作品を残しています。
詮勝は、明治2年(1869)東京向島小梅村に転居し、同17年に81歳の高齢で没しました。千葉県市川市の中山法華経寺には、今も詮勝の遺徳を刻んだ墓碑が遺されています。
天井墨絵「竜神」
間部家の菩提寺 萬慶寺
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