高島 善左衛門(1775-1849)
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最終更新日:2017年3月24日
石田縞の創始者
石田下町に「石田縞元祖之碑」という大変立派な石碑が建てられています。この石碑は、石田縞を興し、そして丹生郡の村々に普及させた高島善左衛門の遺徳を偲ぶために大正13年(1924)に建てられたものです。
石田縞を始めた高島善左衛門は、安永4年(1775)丹生郡下田村(現在の石田下町)に生まれました。石田村は日野川沿いに位置しているため、川が氾濫するたびに田畑に水が流れ込み、石川原と化してしまうようなところで、また、人口に比べ耕地が少なく農業のほかこれといった産業もないところでした。このような土地で成長した善左衛門は常日頃から村に産業を導入することを考えていました。37歳のときに単身で美濃国(現在の岐阜県)に赴き、織物業を視察し、その技術を学ぶことになりました。そしてその技術や織物に関する知識を習得して帰村しました。帰村後は下石田村で自ら資金を出して工場を建設し、農家の婦女子を集めて織物をはじめました。これが「石田縞」のはじまりとされています。
善左衛門は石田縞という産業を興し、嘉永2年(1849)2月、75歳で没しますが、善左衛門の考えた「村に産業を興すこと」は村の人々に引き継がれ、その後石田縞は「石田の名産」として栄えていくことになります。
こうして江戸時代末期から始められた石田縞は、縞木綿の持つ暖かい特性を活かした織物で、着物や布団の生地として生産がはじめられました。当初は「地機」という簡単な織機を用いて製織していたため、生産量はそれほど多くなく、いわば農家の副業として細々と行われている程度でした。しかし、明治に入ってから「地機」は「カンダイジ」と呼ばれる織機に変わり、さらに「バッタン機」へと変わり、唐糸や紡績糸が使用されるなど技術の改良が図られ、次第に生産量も増加し、したがって同業者も増え石田縞の同業者組合も設置されました。
大正時代に入ると、石油発動機を利用した織機が開発されたことと、科学染料が使用されたことによって石田縞の生産量は飛躍的に増加し、大正12年(1923)には実に27万反におよび、その生産高は最盛期に達しています。このころになると石田縞の生産は下石田村に限らず隣郷の諸村でも行われるようになりました。その内訳を「福井県自治民生資料」で調べてみますと、立待村で19戸、吉川村25戸、豊村2戸、その他朝日町32戸、糸生村10戸、常盤村2戸、天津村2戸、織田村1戸、吉野村4戸となっており、主として丹生郡の村々で広く行われていたことがわかります。石田縞が織物として優れていることが各地で評判になり、販路も拡張されました。石田縞の販路は、県内はもちろん、関西方面や北海道そして九州にまでおよび、一部は海外にまで輸出されるようになりました。
幻の織物
ところで、石田縞は「学校縞」とも呼ばれ、県内の小学校や女学校の制服として使用されていました。石田縞が学校縞として採用されるのは大正4年が最初ですが、これを契機に嶺北の学校を中心に採用され、大正14年と昭和2年(1927)には実に26校で石田縞が使用されています。当時は自動車もなく、自転車や荷車に反物を積んで大野や三国まで運んだという苦労話が伝わっています。こうして石田縞は普段着や学校の制服として幅広い利用がありましたが、昭和に入ると人絹織物の出現や服装の洋装化によって昭和10年(1935)ころにはほとんど絶えてしまいました。当時の制服や布団地はもうほとんど残っていませんし、その技術を伝える人もほとんどいなくなり石田縞は「幻の織物」になってしまいました。
福井県は繊維王国として発展していくことになりますが、実はその基盤は善左衛門のはじめた石田縞があったからかもしれません。
それぞれの学校制服生地
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