このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動




サイトメニューここまで
本文ここから

小泉 了諦(1851-1938)

ページ番号:958-898-480

最終更新日:2017年3月24日

 小泉了諦(りょうたい)は、法林寺第8世小泉了円の長男として、嘉永4年(1851)に生まれました。法林寺は浄土真宗誠照寺派の本山誠照寺第14世秀山の弟子であった円智が開いた寺院でしたが、父了円が亡くなると、了諦が12歳で法林寺第9世となりました。
 了諦は14歳のときに美濃大性寺大安の寮に入り、ここで数年間仏教を学びます。その後、東京に出て外典(仏教以外の宗教書)や漢詩、和歌、書などを学び、明治6年(1873)には慶応義塾に入学して英語を学んでいます。
明治時代、政府は神仏分離を政策として打ち出し、神道を国教と定めたため、全国的な「廃仏希釈」の動きが広がり、仏教界は危機感を募らせました。このため、仏教界内部でも宗教改革の動きや海外への布教活動が盛んとなり、僧侶たちも仏教学を極めるため経典を原典で学ぼうとする動きも広がっていきました。こうして、日本仏教各派の僧侶たちがインド・スリランカ・タイなどのアジア諸国に留学していったのです。
 了諦は、明治22年(1889)に本山誠照寺を代表して留学生に選ばれ、インドからスリランカに渡り、サンスクリット語を学び、小乗仏教を研究しました。ここで了諦はすばらしい研究成果を修め「衆(人々)の模範である」と賞賛されました。その後も留学は続き、トルコでは皇帝に法話を行い、フランスでは大統領以下300人の群集に対して法話を行いました。当時のフランスの新聞には「東洋の生き仏」「ヨーロッパにおける仏教伝道のはじめ」と紹介されています。
 帰国後、了諦の労をねぎらい、本山から特別な袈裟と高い地位が与えられることとなりましたが、了諦は袈裟のみを受け取り、地位については固辞しました。「道念深く、決して髪を蓄えない、色衣もまとわず」絶えず粗末な黒衣墨裟を身にまとっていたと伝わっています。
 了諦は、その後も本山誠照寺の3代の法主に仕え、本山を支え続けました。とりわけ、本山誠照寺第26世秀源は了諦を「心の友」「終生の友」と称し厚い信頼を寄せていました。了諦は、昭和13年(1938)1月6日、88歳で亡くなるまで布教活動を精力的に行い、各地を遊説して回りました。

お問い合わせ

このページは、文化課が担当しています。

〒916-0024 鯖江市長泉寺町1丁目9番20号

文化振興グループ
TEL:0778-53-2257
FAX:0778-54-7123
文化財グループ
TEL:0778-51-5999
FAX:0778-54-7123

このページの担当にお問い合わせをする。

情報がみつからないときは

サブナビゲーションここまで

鯖江市章
〒916-8666 福井県鯖江市西山町13番1号
TEL:0778-51-2200(代表)
FAX:0778-51-8161
  • 鯖江市の花・木・鳥
    つつじ・さくら・おしどり
  • 人口と世帯
  • 鯖江市の動物レッサーパンダ
    メガメガ・ウルウル
トップへ戻る
Copyright (c) Sabae City. All Rights Reserved.
このページのトップに戻る