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三峯城跡

ページ番号:745-305-536

最終更新日:2022年5月7日

三峯城跡
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指定情報

指定

《市指定 第30号》 平成3年4月3日

所在地 鯖江市上戸口町・西袋町地係
管理者 三峯城跡保存会
時代 南北朝時代

概要

 三峯城は、標高約405mの「城山(しろやま)」山頂に築城された山城(やまじろ)で、一部が福井市鹿俣(かなまた)町にまたがる。山頂は金谷(かなだに)方面・西袋(にしぶくろ)方面・上戸口(かみとのくち)方面からのびた3つの尾根が合流した形で、「三峯」の地名はこれに由来するようであり、眼下に谷平野を一望できることから戦略的拠点としては格好の立地と言える。
 『太平記』によると、「南北朝争乱期の延元2年(1337)、北朝方の平泉寺(へいせんじ)僧兵が南朝方に翻り「三峯」に立て篭もった際に、南朝方の総大将である新田義貞は弟の脇屋義助を城の大将として派遣した」とある。以後、南朝方の攻勢の拠点として重要な位置を占めていたようであるが、築城から4年目の暦応3年(1340)に北朝方の三山重行によって攻め落とされている。
 城の縄張りは、主郭が南北方向にならぶ連郭式(れんかくしき)山城であり、城の主要部である3つの主郭の間はそれぞれ堀切で区画され、最高所にある(くるわ)1は規模も約88.1平方mと最大である。郭1の北には郭2・郭3が連なり、それぞれ階段状の3基と5基の小郭から構成されている。また、郭1の南西には郭4・5・6、東側には郭7・8が築かれている。この他、櫓台(ろうだい)竪堀(たてぼり)土橋(どばし)虎口(こぐち)など遺構の残りが非常に良く、南北朝時代の山城の特徴をよくとどめた貴重な遺跡である。

コラム 南北朝の争乱

 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐(ごだいご)天皇は天皇親政を理想とする「建武の新政」(1334)を進めた。しかしこの政策は武士の反感を買い、足利尊氏は京都に光明(こうみょう)天皇をたて(北朝)、後醍醐天皇は吉野に移った(南朝)。これ以後、60年にわたり2つの朝廷が対立し、全国各地で激しい戦いを繰り広げた。

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