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鯖江藩

ページ番号:320-328-810

最終更新日:2017年3月24日

鯖江藩の歴史と歴代藩主たち

 鯖江藩は、越前国のほぼ中央に位置し、北陸道に面した浄土真宗誠照寺(じょうしょうじ)の門前町にあったが、家数十数軒の「間の宿」茶屋町に過ぎなかったという。享保5年(1720)間部詮言(まなべあきとき)が越後村上から5万石で入封し、鯖江藩が設立してはじめて鯖江のまちづくりが進められた。鯖江藩の成立は江戸中期、越前では一番遅い成立であり、すでに藩領域をもつ越前の諸藩に割り込む形で鯖江藩の領国支配が行われた。5万石の鯖江藩領域は今立・丹生・大野の3郡にまたがり、各村々は他藩と錯綜(さくそう)し、領国支配は非常な困難を伴った。

 鯖江藩初代詮言の兄詮房(あきふさ)は、将軍家宣(いえのぶ)・家継(いえつぐ)の2代に仕えた御用人であり、綱豊(家宣)が甲府時代に小姓として召し出され、将軍継嗣(けいし)として江戸城西ノ丸に入ると幕臣となり、綱豊が6代将軍になると老中格となり、宝永7年(1710)には高崎5万石に封ぜられた。享保2年(1717)越後村上で逝去した。詮房の幕閣における活躍は当時の側用人政治の波にのり、将軍の絶大な信任と稀代の経世家新井白石の協力を得て、世に「正徳の治(しょうとくのち)」といわれる幕政に大きく貢献した。詮房は小姓から身を起こし、2代の将軍に仕えて5万石の大名にまで出世した破格の幸運児であった。

 詮房の死後、実弟詮言が家督を継ぎ、同時に鯖江藩5万石に所替えを命ぜられた。藩主は初代詮言の後、詮方(あきみち)、詮実(あきざね)、詮道(あきみち)など9代150年にわたり在封した。初代詮言が入封した西鯖江村は村高800石、家数27軒の北陸道沿いの寒村で、しかも片側は若狭小浜藩領に接し、福井藩領や誠照寺門前町が入り組んでいた。家臣団の移住と陣屋の設営が最初の難題であったが、享保6年9月、幕命による村替えで一応の決着を見ることができ、陣屋町の建設が軌道に乗った。犬牙相制(けんがそうせい)する藩領の支配には藩領を6つの組にわけ、各組に大庄屋(おおじょうや)をおき、鯖江の地元には陣屋付庄屋をおき、領国支配の円滑化を図った。

 詮言は初代藩主として家臣団の移転、領国支配の確立、陣屋町形成などに取り組んだが、城下の建設半ばで国元鯖江の地を踏むことなく、享保9年(1724)江戸芝三田でなくなった。

 2代藩主詮方(あきみち)は享保14年藩主として初めて鯖江に入部するが、家臣たちの国元での藩主を迎える緊張ぶりは大変なもので、北陸道の藩領南北の出入り口に喰違い門の建設や陣屋普請があわただしく行われた。寛保2年(1742)関東を襲った大洪水の際、幕命により鯖江藩ほか数藩とともに新利根川の修復工事を命ぜられ、鯖江藩は家老植田左仲を総督として川堤の修理を分担した。総州の地元には今も大堤修補碑が残されている。詮方の入部後、苦労してようやく整った陣屋町も、宝暦5年(1755)鯖江の大火のため町方の大半を焼失し、再び新しいまちづくりが課題となった。

 3代藩主詮央(あきなか)は宝暦11年(1761)に家督を相続するが、鯖江の大火に次ぐ江戸上屋敷の類焼があり、また仲姫の婚礼などで経費はかさみ、藩財政は極度に窮乏した。そのため、家中・在方に厳しく倹約を行う一方、あわせて作喰米の拝借を許し、飢人には御救として稗の支給を行った。

 4代藩主詮茂(あきとお)は明和8年(1771)に家督を相続し、安永2年(1773)自ら領内各地を巡見したが、明和以降の凶作の惨状はひどく、それに次ぐ天明の飢饉では葛根を掘って飢えを凌ぐ有様で、領内の飢人には稗代を支給したり、御救米・作喰米の下附による対応が図られた。

 5代藩主詮煕(あきひろ)の時代は、天明期の打ち続く凶作や参勤交代および公役負担のため、費用はかさみ財政的に一層行き詰った。そのため、家中・在方にさらに厳しい倹約令を出し、農家には農間稼の銀役についての触を出し、家中へは重ねての借り上げに及んだが、逆に藩の返済は長期の延払いや後引きとなり、藩内の動揺は深まるばかりであった。詮煕の治世は25年にわたり、天明8年(1788)京都から儒者芥川元澄(あくたがわもとずみ)を招き、藩儒として藩士・子弟の教育にあたり、文化4年(1807)には「間部家譜」を選ばせ、「越前鯖江志」の編さんも行われた。

 6代藩主詮允(あきざね)は在職2年の短い期間であったが、先代の遺志を継ぎ江戸藩邸には「惜陰堂(せきいんどう)」、国元には藩校「進徳館(しんとくかん)」を創設した。また、財政窮乏に対処するため藩士の家禄の制を改め、勤め向きの「加恩」を制限し役料・役金を定めるなど家禄の改革を行った。

 文化11年9月、兄詮允の急死により詮勝(あきかつ)が鯖江藩7代藩主となった。詮勝は文政4年(1821)6月初めて鯖江の地に入部すると、翌年2月から4月にかけ6回にわたり藩士を随行して領内を巡見した。領内巡見の様子は、同行の藩儒芥川希由(玉潭 ぎょくたん)がまとめた「政午紀行(せいごきこう)」に記録されているが、「封地村民の風俗ヲ見、地勢要害ノ場ヲ按ヘ、冨戸・窮民ヲ詳ニシテ、村長ノ善否ヲ察し、農耕ノ勤惰ヲ知ル」と藩主の積極的な領内に対する深い関心と治政への情熱を伺うことができる。

 また幕政における活躍としては、文政9年(1826)奏者番となり、天保元年(1830)寺社奉行見習(じしゃぶぎょうみならい)、同8年大坂城代(おおさかじょうだい)、翌年京都所司代(きょうとしょしだい)と出世コースを歩み、同11年には江戸城西ノ丸老中となった。この年、将軍家慶(いえよし)から築城費5千両を賜ったが、内外の事情により実現しなかった。

 安政5年(1858)井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任すると、詮勝は再び老中(勝手掛兼外国御用掛)となり、当時の内憂外患に取り組んだ。特に詮勝は尊攘運動の熾烈をきわめたなかで、日米通商条約を幕府が勅許を待たずに調印した事情を説明するため朝廷に参内し大任を果たした。幕府はその労を賞し1万石の村替えを命じた。しかし、急激な政情変化により文久2年(1862)になると鯖江藩は1万石の領地減石となり、詮勝は隠居謹慎を命ぜられ、家督を詮実に譲ることとなった。詮勝の資性は厳毅廉直にして豪邁(ごうまい)は群を抜き、上にへつらうことなく、下には慈愛にあふれていた。11歳で封をつぎ藩主として博く学をおさめて文武両道を究め、中央、地方での活躍はめざましく、現在に残る多くの書画などの作品にその人柄の一端を伺うことができる。国元鯖江の西山の景況を愛し、自ら「嚮陽渓(きょうようけい)」と命名した碑が今も西山公園に残されている。それには安政3年に草した四言八句が刻まれ、詮勝の自然を愛し領民を苦楽を共にした詩情があふれている。

「披林聴鳥 隔水賞花 吟詩製畫 酌酒煎茶
 調音不妨 擇友須約 非獨忘憂 與衆同楽」

 詮勝は、石見浜田6万5千石の大名松平康任(やすとう)(当時大坂城代)の娘簾子(れんこ)を正室に迎えた。簾子は玉雪と号し、文墨に巧みであり数々の作品を今に見ることができる。

 文久2年、詮実は父詮勝の隠居謹慎により36歳で8代藩主となった。治世わずか1年余り、急病で他界するが、幼少から読書を好み、詩・書画をたしなみ、武芸に励んだ。各種文献を筆まめに筆写しまとめた絵入りの随筆集「待月亭漫筆(たいげつていまんぴつ)」など81冊を残している。

 9代藩主詮道は、元治元年(1864)家督を相続した。幕末維新の最後の藩主として政情激変の中にあって家中が一つになり、邁進することを懇諭し藩政に取り組んだ。

 明治4年(1871)、廃藩置県となり藩領は鯖江県を経て敦賀県に編入された。詮道のあと間部家は詮信(あきのぶ)、勝章(かつあき)、詮正(あきまさ)と受け継がれた。明治17年(1884)、華族令が公布されると詮信には子爵が与えられた。
 

歴代藩主

初代 間部詮言(まなべあきとき)

元禄3年(1690)西田清貞の五男として江戸に生まれた。幼名は内蔵助、主馬。宝永5年(1708)4月、兄詮房(あきふさ)の養子となり、享保5年(1720)詮房が亡くなると、同年9月、家督を相続。所領は越後村上から越前鯖江に所替之を命ぜられ、詮言は初代鯖江藩主となった。しかし、詮言は鯖江の地を踏むことなく、享保9年(1724)8月、江戸藩邸において逝去。
 

2代 間部詮方(まなべあきみち)

宝永6年(1709)1月、初代藩主詮言の兄詮貞の長男として江戸で生まれた。幼名は多門。享保9年(1724)8月、詮言の養嗣となり10月家督を相続、2代藩主となる。前藩主の遺志を継ぎ城下町の建設に全力を注いだ。天明5年(1785)8月、江戸において逝去。
 

3代 間部詮央(まなべあきなか)

2代藩主詮方の二男として元文3年(1738)11月、江戸で生まれた。幼名は多門。宝暦11年(1761)12月、家督を相続し3代藩主に就任。同13年8月に鯖江に入部。財政改革に努力した。明和8年(1771)5月、逝去。
 

4代 間部詮茂(まなべあきとお)

3代藩主詮央の弟で元文4年(1739)5月、鯖江に生まれた。幼名は八次郎、左次郎、方格。兄詮央に男子がなく明和8年(1771)5月急養子となり、同年7月に家督を継ぎ、4代藩主となった。安永2年(1773)6月鯖江に入部。天明の大飢饉では領内の飢人救済に力を注いだ。天明6年(1786)6月、逝去。
 

5代 間部詮熈(まなべあきひろ)

4代藩主詮茂の子として、明和7年(1770)6月、鯖江で生まれた。幼名は、内蔵、主膳、主膳正。天明6年(1786)7月に家督を相続、5代藩主に就任。詮熈は武芸、学問を好み、同8年には京都から芥川元澄を招き、藩士やその子弟の教育にあたらせ、文武を奨励し、後の藩校成立の基礎を形成した。文化9年(1812)1月、鯖江において逝去。
 

6代 間部詮允(まなべあきざね)

5代藩主詮熈の長子として寛政2年(1790)1月、鯖江で生まれた。幼名は直之助。文化9年(1812)3月家督を相続し、6代藩主に就任。翌10年、江戸藩邸(三田小山邸)に惜陰堂を設立し、同11年には鯖江中小路に稽古所(後に進徳館と改称)を建設し、藩士の教育に尽力し、藩士の家禄を改定した。文化11年7月、逝去。
 

7代 間部詮勝(まなべあきかつ)

文化元年(1804)2月、5代藩主詮熈の三男として生まれた。幼名を鉞之進、初め詮良と称し、元服後、詮勝に改めた。文化11年(1814)9月、家督を相続、7代藩主となる。天保14年(1843)水野忠邦との意見不一致により老中職を辞職。日米修好通商条約調印直後の安政5年(1858)6月、大老井伊直弼により再び老中に登用された。
 詮勝は、安政6年12月に再び老中を辞した。文久2年(1862)在任中の追罰を受けて領地1万石を召し上げられ、隠居謹慎を命ぜられたが、慶応元年(1865)謹慎は解かれた。晩年は詩文、書画をよくし、号には松堂・常足斎・晩翠軒などがある。また、嚮陽渓の開発でも知られ、歴代藩主の中でも特筆される人物である。
 

8代 間部詮実(まなべあきざね)

7代藩主詮勝の二男で文政10年(1827)4月、江戸で生まれた。兄が早世したため世子となり、文久2年(1862)父詮勝の隠居謹慎によって家督を相続、8代藩主となる。領地は減禄され4万石に、公役としては文久3年3月、御殿山下の警備を命ぜられている。同年11月急病のため、治世わずか1年余りで死去。幼少から学問を好み、松齋という号を持ち、詩歌・書画を嗜み、武芸に励んだ。
 

9代 間部詮道(まなべあきみち)

7代藩主詮勝の九男として、嘉永6年(1853)9月、江戸で生まれた。幼名は卍治。元治元年(1864)3月家督を相続し、9代藩主となる。藩主就任直後から戊辰戦争に出兵するなど幕末の動乱期の鯖江藩最期の藩主であった。明治15年(1882)に家督を長男詮信に譲り、同25年(1892)東京にて逝去。

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