近松門左衛門
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最終更新日:2017年3月24日
井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)とともに元禄三大文豪として名高い浄瑠璃・歌舞伎作者“近松門左衛門”は、鯖江(吉江町)で生まれ育ったとされ、多感な少年時代までの人間形成に大切な時期を過ごしました。 劇作家として大成するうえで、幼少期を過ごした越前鯖江の豊かな自然や人情は、彼の生み出した作品に大きく影響したことと思います。
近松と鯖江
承応2年(1653)、福井藩の武士の家に次男として生まれた近松は、本名を杉森信盛(すぎもりのぶもり)といいます。小さい頃は次郎吉(じろうきち)と呼ばれ、成人後の通称は平馬、作者となってからは筆名を近松門左衛門としました。父・杉森信義は始め福井藩士でしたが、福井藩の分家に吉江藩ができると、藩主・松平昌親に従って吉江藩士となりました。母は福井藩に勤める医師・岡本為竹の娘・喜里との説がありますがはっきりとはしていません。12歳頃までこの吉江で過ごした後(1664以降)、父・信義は吉江藩を辞め、一家は京都へ引っ越しました。
浄瑠璃作家としての出発
京都に移った近松は公家に仕え、その間、浄瑠璃の語り宇治嘉太夫と出会い、彼のもとで浄瑠璃作家の修行を始めます。天和3年(1683)、嘉太夫に書いた「世継曾我」が世評を得、嘉太夫の門下にあった竹本義太夫とも提携するようになりました。貞享元年(1684)、大坂に竹本座を創設した義太夫を祝って書いた「出世景清」を契機として、現実的、個性的描写による浄瑠璃の新生面を開き深化を遂げました。
歌舞伎作者としての活躍
元禄期後半の約10年間は、上方の名歌舞伎俳優坂田藤十郎との緊密な提携のもと、歌舞伎制作に主たる情熱を注ぎました。代表作として「傾城仏の原(けいせいほとけのはら)」があります。
歌舞伎から浄瑠璃へ
藤十郎が都万太夫座(京都)の座元を引退すると大坂に移住し、義太夫の竹本座専属となって浄瑠璃の創作に専念しました。元禄16年(1703)「曾根崎心中(そねざきしんじゅう)」で大当たりをとって以降、次々と傑作を生み出していきました。
近松の最期
享保9年(1724)11月22日、大坂天満で没し、約40年に渡る作家生活を終えました。大坂谷町法妙寺、尼崎広済寺に葬られています。
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