石田縞
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最終更新日:2021年11月17日
指定情報
指定 | 《市指定 第89号》 平成21年 |
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所在地 | 鯖江市立待地区 |
保持者 | 1名 |
時代 | 江戸時代後期~現在 |
概要
木綿の織物で、石田縞の織機はイザリ織・高機・バッタンなどの手織機である。経糸に細い唐糸を2本撚り合わせた双子糸(単糸の3倍の強さあり)を、緯糸に単糸の唐糸を使用して織ったものであり、幅9寸5分、丈2丈78尺、スマートさはないが腰が強く丈夫であり織り目も縞模様もはっきりとしている。その素朴な風合いが当時の質素な気風、生活に合致し、越前一帯の綿織物の中心として流通した。
その起源は、文政年間(1818~1829)、丹生郡立待村下石田の富農 高島善左衛門が自ら工場を建設し、美濃から職工を招いて製職したのが始まりとされる。明治期に入ると周辺の朝日村・吉川村でも生産され、市場も越前一帯に拡大していき綿織物の中心となる。寝具地や普段着として普及したほか、女学校や小学校の制服として採用され「学校縞」と呼ばれた。しかし、大正後期には他の綿織物が増加し、昭和期に入ると洋服が普及して、次第に石田縞の固定需要を奪い、さらに人絹織物への転換が拍車をかけ、その地位を低下させた。昭和12年(1937)の日中戦争の勃発以後は、綿花の輸入が制限され、戦時下の企業合同の強制が石田縞のような弱小企業を切り捨てた。こうして商品としての石田縞は終わりを告げた。
石田縞の誕生から終焉に至る経緯は、まさに福井県ないし鯖江市の繊維産業の歴史の一旦を物語るものであり、その技術体系と遺品は貴重な資料である。
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