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石田縞

ページ番号:695-843-286

最終更新日:2026年5月28日

指定情報

指定 《市指定 第169号》 令和8年4月30日
発祥地

鯖江市立待地区

保持団体 石田縞保存会
時代 江戸時代後期~現在

概要

 石田縞(木綿の平織を主とする)の織機はイザリ織・高機・バッタンなどの手織機である。製品の多くが、経糸に細い唐糸を2本撚り合わせた双子糸(単糸の3倍の強さあり)を、緯糸に単糸の唐糸を使用して織られ、主に植物染料によって染色される。幅9寸5分、丈2丈7・8尺、スマートさはないが腰が強く、丈夫で織り目も縞模様もはっきりとしており、素朴な風合いが当時の質素な気風・生活に合致した。
 その起源は江戸時代後期の文政年間(1818~29)、生産性の低い農村の換金作物として丹生郡立待村の富農の高島善左衛門が自ら工場を建設し、美濃から職工を招いて製職したのが始まりとされる。
 明治期に入ると周辺の朝日村・吉川村でも生産され、市場は越前一帯に拡大。鯖江市域立待地区は綿織物の生産地の中心となり、「石田縞」は寝具地や普段着として多く用いられたほか、福井県下の女学校や小学校の制服として採用され、「学校縞」とも呼ばれた。最盛期には関西方面のみならず北海道・九州そして台湾・朝鮮半島にまで輸出され、今日の鯖江市の繊維産業の基礎を形成した。しかし、昭和期に入ると洋装が普及して次第に制服地としての固定需要を奪い、さらに人絹織物への転換が拍車をかけてその地位を低下させた。昭和12年(1937)の日中戦争勃発以後は、綿花の輸入制限や企(機)業合同の強制によって「石田縞」などの小規模企業は縮小あるいは軍需産業に転換、やがて廃業に追い込まれた。「石田縞」製品生産は終わりを告げたが、地域に残った伝統の技は昭和40年代後半に復元され、現在に至っている。
 初期の石田縞は越前産の単糸木綿糸を用いたものと推定されるが、製品の原材料が国産糸から外国産木綿糸に移行する過程で、地場の改良として強度を増すために双子糸(諸撚糸)とした可能性が想定される。また、元来は藍染めによる染織が主体であったと考えられるが、近代以降には化学染料も用いられたほか、動力織機による製品生産も行われた。一方で、これらは石田縞の価値を減ずるものではなく、その誕生から終焉に至る経緯は、福井県ないし鯖江市の繊維産業の歴史の一端を物語るうえで重要である。


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