最終更新日:平成18年2月7日

近松門左衛門

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ちかもんくん井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)とともに元禄三大文豪として名高い浄瑠璃・歌舞伎作者“近松門左衛門”は、物心ついたころから多感な少年時代までの人間形成に大切な時期を鯖江で過ごしています。 劇作家として大成するうえで、幼少期を過ごした越前鯖江の豊かな自然や人情は、彼の生み出した作品に大きく影響したことと思います。

近松と鯖江

承応2年(1653)、越前(現在の福井県)の武士の家に次男として生まれた近松は、本名を杉森信盛(すぎもりのぶもり)といいます。小さい頃は次郎吉(じろきち)と呼ばれ、成人後の通称は平馬、作者となってからは筆名を近松門左衛門としました。父・杉森信義は福井藩分家の吉江藩士でした。母は福井藩に勤める医師・岡本為竹の娘・喜里との説がありますがはっきりとはしていません。近松2歳(数え年で3歳)のとき、一家揃って吉江(鯖江市吉江町)に引っ越してきました。10年余りをこの吉江で過ごした後(1664以降)、父・信義は吉江藩を辞め、一家は京都へ引っ越しました。


浄瑠璃作家としての出発

京都に移った近松は公家に仕え、その間、浄瑠璃の語り宇治嘉太夫と出会い、彼のもとで浄瑠璃作家の修行を始めます。天和3年(1683)、嘉太夫に書いた「世継曾我」が世評を得、嘉太夫の門下にあった竹本義太夫とも提携するようになりました。貞享元年(1684)、大坂に竹本座を創設した義太夫を祝って書いた「出世景清」を契機として、現実的、個性的描写による浄瑠璃の新生面を開き深化を遂げました。


歌舞伎作者としての活躍

元禄期後半の約10年間は、上方の名歌舞伎俳優坂田藤十郎との緊密な提携のもと、歌舞伎制作に主たる情熱を注ぎました。代表作として「傾城仏の原(けいせいほとけのはら)」があります。


歌舞伎から浄瑠璃へ

藤十郎が都万太夫座(京都)の座元を引退すると大坂に移住し、義太夫の竹本座専属となって浄瑠璃の創作に専念しました。元禄16年(1703)「曾根崎心中(そねざきしんじゅう)」で大当たりをとって以降、次々と傑作を生み出していきました。


近松の最期

享保9年(1724)11月22日、大坂天満で没し、約40年に渡る作家生活を終えました。大坂谷町法妙寺、尼崎広済寺に葬られています。


吉江藩城下町想定図(近松がいたころの吉江)

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